■理系女子の未来
「ビール好きな人が、もっと気兼ねなく飲めるおいしいビールをつくりたい」と、大手ビールメーカーで技術開発に挑み、大ヒットにつながった研究者がいます。2児の母でもあり、子育てと仕事を両立させながら活躍する女性に、技術開発の面白さとその行動力の秘訣を聞きました。(写真=キリンホールディングス提供)
高校時代の見学が原点
森下あい子さんは、キリンホールディングスR&D本部飲料未来研究所で、「一番搾り 糖質ゼロ」の技術開発に取り組んだ研究者の一人です。
高校3年の時、修学旅行で訪れた茨城県つくば市の研究施設で、「細胞融合でトマトとジャガイモが一緒に実った」という最先端バイオ実験に触れ、植物を使った研究に強い興味を持ちました。これをきっかけに、応用生物科学を学べる大学を志望し、東京理科大学理工学部応用生物科学科(現・創域理工学部生命生物科学科)に進学しました。
大学では、植物生理学を専攻し、学部4年から大学院修士までの3年間は、国立研究開発法人農業生物資源研究所(当時)の外部研究生として、イネ幼苗が冷害などの低温ストレスに強くなる「耐凍性」の仕組みを研究していました。

お酒はコミュニケーションの潤滑油
大学時代の森下さんは、キャンパスのある千葉県野田市で一人暮らしをしていました。野田キャンパスは広大で緑豊かな環境にあり、学生が最先端の研究を学ぶための講義棟や図書館、多領域に及ぶ多くの研究施設があります。都心と筑波研究学園都市の中間という地の利を生かし、外部機関との連携を深め、特色ある教育研究拠点として、研究に集中できる環境が整っています。
講義・実験と部活をこなす多忙な生活が続き、学生生活の大半をキャンパス内で過ごしたという森下さん。大学の勉強は忙しかったですが、1年次から専門科目を履修することができるなど、早くから生物科学の専門分野を学べたことは有意義だったと振り返ります。
「カリキュラム上、取り組まなければならない課題が多くて大変でしたが、スケジュール感覚と期限内にやり切る力は大学時代に鍛えられました。この経験はその後の技術開発において、期限と成果を両立させる研究姿勢を体得するうえで役に立ったと思います」
知らない土地で、最初は戸惑いも多くありましたが、水泳部に所属したことで自然と仲間ができ、不安を払拭することができました。周りには同じように一人暮らしをする友人や先輩も多く、一緒に過ごす時間が増え、家族といるような楽しい時間になっていきました。
「お酒が飲める年になってから、部活や研究仲間との集まりを通じて、ビールやお酒はコミュニケーションの潤滑油だということに気づきました。それらを作る仕事を通して、社会の役に立ちたいと思うようになり、就職の動機につながりました」
キリンビールに入社した2005年は、産地や品質を偽装するなど他社の食品偽装事件が社会的な問題になっていた頃でした。「安全・安心を最後に保証できる生産技術職」を志望した森下さんの最初の配属は、生産本部取手工場の品質保証担当でした。その後、2度の異動を経験し、10年に現在のキリンホールディングスR&D本部の飲料未来研究所に配属され、ビールの技術開発に携わることになりました。
おいしさと「糖質ゼロ」の両立
大ヒットにつながった「一番搾り 糖質ゼロ」を開発するきっかけになったのは、花見の席での友人の一言でした。「ビールは好きだけど、体形や健康が気になって……」という言葉が心に残り、2人目の子どもの育休明けの15年、「ビール好きの人がもっと気兼ねなく飲めるおいしいビールをつくりたい」と社内提案し、開発プロジェクトが始動しました。
ビールは、主に麦芽、ホップ、水、酵母を原料とし、麦芽に含まれる酵素の働きによって、でんぷんを糖化工程で糖に分解し、その糖を酵母がアルコールと炭酸に変える発酵を経てつくられます。一般的なビールでは、発酵後にも一部の糖が残るため、糖質が含まれます。糖質はビールの風味やコク、泡立ちにも影響するため、糖質を完全になくしながら、ビールのおいしさと両立させる開発は困難を極めました。
「分解しやすいでんぷんを含む(分解しにくい糖が少ない)麦芽を選定し、酵母が糖を残さず消費できるよう、糖化工程の温度や時間、酵母の発酵条件を何度も細かく調整しました。通常は十数回で終わる試験醸造を350回以上、味わいの追求に60回以上を費やし、通常の新商品開発が1~2年で完了するところを、5年もかかりました」
社内の最終的な味覚決定メンバーからの差し戻しも十数回あり、その度にさらに細かな再調整を重ねました。
「最後においしさの決め手となったのが、キリン独自の『一番搾り製法』でした。つまり、糖化条件と酵母選定で残糖を極限まで減らしながらも、麦汁の最も澄んだ部分だけを使用することで、雑味のない澄んだ麦のうまみを実現できました。誰もが納得できるビールらしい味わいに仕上がり、ほっとしました」
20年秋、「一番搾り 糖質ゼロ」を正式発売すると、健康に配慮した糖質ゼロなのに「ちゃんとビール」という味わいがウケ、空前の大ヒットになりました。粘り強い技術開発の結果が、市場に受け入れられたのです。

キャリアを止めない働き方
現在(取材当時)、森下さんは飲料未来研究所のチームリーダーとして、若手の技術提案を後押しし、「新たな健康価値・おいしさ価値」の創出に挑んでいます。25年からは、研究所の枠を超えて、「会社として将来どのような技術を開発していくべきか」を構想する全社横断プロジェクトにも参画し、経営と技術をつなぐハブの役割を担っています。
「一つの商品に留まらず、会社全体としてお客さまにどのような『ワクワク』を届けられるか。技術だけでなく事業やサービスまで視野を広げ、新しい価値をつくっていきたいです」
高校時代からずっと理系畑を歩んできた森下さんは、男性が多い環境で過ごすことが多かったものの、「男女で線を引かれた記憶はほとんどない」と話します。周囲が男女に関係なく、能力をフラットに評価してくれたことが、女性であることを意識することなく、自然体でいられた理由だと感じています。
唯一、女性であることを意識したのは、出産や育児などのライフイベントでした。現在、高校1年と小学6年の2人の息子がいる森下さんは、2度の産休・育休を経験しました。キャリアが途切れる不安があったものの、救われたのは上司がかけてくれた言葉でした。
「『長い会社人生から見れば、産休・育休もわずかな期間。すぐに巻き返せるよ』と背中を押してくれた上司のお陰で、育休明けの復帰もスムーズでした。恵まれた職場環境だなと実感しました」

好奇心がエンジンとなる
応用生物科学を学べる大学は全国に広がっています。
東京農工大学農学部応用生物科学科は、化学と生物学をもとに、微生物、動物、植物などの生命機能を解明・応用することで、生命科学の発展に貢献することを目的に研究を行っています。
大阪公立大学農学部応用生物科学科では、遺伝子、タンパク質、代謝産物の働きに基づいて生物の能力を明らかにし、グリーンバイオ・アグリイノベーションに関する研究・教育を行っています。食料生産、食品やバイオ産業に関わる研究者・技術者を育成します。
岐阜大学応用生物科学部には、応用生命化学科、食農生命科学科、生物圏環境学科、共同獣医学科の4つの学科があります。生命、食、環境分野を対象に、最新の農学教育を行っています。
森下さんは理系への進学や就職を希望する学生にこうアドバイスします。
「まずは自分とじっくり向き合いながら、自己理解を深めてほしいと思います。そして、自分が何にワクワクするかを見つけてください。やりたいことが見えてくると、好奇心がエンジンになり、視野も広がって、どんな壁にぶち当たっても乗り越えていけるはずです」
(文=石川美香子、写真=キリンホールディングス提供)
【写真】「糖質ゼロ」のビールを開発したキリンホールディングスの森下あい子さん
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